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ドイツの春

〈職業訓練見学記〉

 

 原告の中嶋さんは2008年3月に、ドイツの職業訓練の現場を見学に行っています。

 

こちらでは東京公務公共一般労働組合の機関紙「公共一般」で13回にわたり掲載された記事(2008年7月8日付~2009年3月10日付)を紹介します。

 

 

第1回 夢を追う

 子どもの頃「大きくなったら何になる」と聞かれて、幼稚園の先生とかバレリーナーとか、パン屋さんや花屋さんもいいな、などと考えたのは私だけではないでしょう。

それぞれに夢を描いた記憶は懐かしいものです。しかし果たして、描いた夢は叶えられたでしょうか。

もしそうでなかったとしたら、その夢は何処に置いてきたのか、それとも、もっと良い夢に出会ったのでしょうか。時には子どもの時代を振り返ってみることも、楽しいことです。

 私は今、なぜ職業訓練という仕事に携わっているのか、夢と現実の間に横たわる壁をいくつも越えてきた結果だろうか。それにしても夢を追うということはなんと素晴らしいことでしょう。

 今年3月、霙ちらつくドイツ・ミュンヘンの空港に降り立ちました。

首都大学東京の大串先生のお誘いで、学生たちに混じって、ドイツの職業訓練を見学する旅に参加させていただきました。

 夢を描くことが困難になってしまった、今の日本の社会の重みから、ほんの少しだけ開放されて息抜きがしたかった。

そんな気軽な気持ちで参加したのですが、この旅を通して、民間委託、市場化テストとますます後退してゆく東京都の職業訓練行政に、夢を失っていく自分達の姿が、一際よく見える思いでした。

 帰国後レポートにまとめて、幾人かの方に読んでいただき、多くの方から励ましの言葉をいただきました。しかし「良いところの一面だけを、見てきたのではないか」と言う指摘も受けました。

 6月、自治研集会で特別報告の機会を与えられ、そしてこのたび公共一般のニュースにも取り上げていただくことになって、大変嬉しく思うと同時に責任も感じる次第です。

 職業訓練以外の旅の思い出も書き加えて、連載させていただきます。

夢を見出せるでしょうか。

どうぞ最後まで読んでいただけることを願っています。

 (2008年7月8日付)

満開の桜の下、朝のエルベ川を散歩する子ども達

第2回 ミュンヘン生産学校1

 ドイツには生産学校が20校余りあります。

今回はミュンヘンとドレスデンの生産学校を訪問しました。

 ミュンヘン市立の「ミュンヘン生産学校」の校門をくぐると、そこここから、私たち日本人20人あまりの訪問者を訓練生たちが興味深気に笑顔で迎えてくれました。

明るく楽しそうで自由な雰囲気が漂っていました。

 ドイツの学校制度は、日本の6・3制とは違い、小学校は4年制です。

小学校を終えると中学校、ギムナジウム(高等中学校)等へ進みます。しかし、成績不振、学習意欲喪失など順調に進めない子もいます。

ドイツではそのことを「自己責任」とはせず、社会的に捉え、手を差し伸べています。

中学中退者や基幹学校未修了者、失業者など「社会的不利益」におかれた青少年に対して、州や市などの公的機関の援助を得ながら運営される「生産学校」という機関で職業訓練が行われています。

 この学校のモットーは「一人ひとりの子どもたちが持っている能力を揺さぶって、最大限に引き出すこと」と校長先生は語ります。生徒の75%がトルコ、ベトナム、タイなど外国人系の子どもたちで、ドイツ語が上手く話せない子も多くいます。

ドイツ(旧西独)は戦後、安い労働力として多くの外国人を迎えました。その子孫たちです。

また女性の自立、経済力などの表れでもあるのでしょうが、場所によっては、離婚率が50%程になる所もあり、家庭が崩壊し親と一緒に住めない子もたくさんできてしまいます。

従って、ここではドイツ語と英語に加え、人間関係をスムーズにするための様々なマナーや食事の仕方なども教えます。

 「大企業は自分の所で職業訓練を持っていますが、そんな機会に恵まれない、この子どもたちに、もし何も手を差し伸べなければ、ストリートチルドレンになってしまう恐れがあります。

生産学校はそのような「社会的不利益青少年」の為にあります」そう語る校長先生のお話に、私は東京の訓練校の機械加工科の授業を思い浮かべながら「授業は成立しますか」と質問しました。

「普通の授業は成立しませんが、一人ひとりの力を生産することに向け、まず実習をする。その後に理論を学びます。働きながら勉強する。これが一番頭に入る方法です」と応えました。

 私は東京都の職業訓練非常勤講師として三十数年、働いています。

職業訓練を希望する人は中学、高校などの新卒者や、現在ついている職業を換えたいと思う者、そして近頃は、倒産や解雇による失業者が多くなっています。

 ドイツの生産学校は日本の職業訓練校とはかなり違いますから、同じレベルで比較することはできませんが、技能を身に付けそれを基に、世の中で働き活躍できるようにすることにおいては、全く同じです。

 ドイツは資格社会です。大学や専門学校で資格を取るか、またはデュアルシステム(職業学校の通学と企業体での職業訓練を統合したもの)で資格を取ります。その準備期間として「生産学校」が位置づけられてるのです。  (2008年7月22日付)

木工科・外国人系訓練生

第3回 職業訓練に問われる公共性

 ドイツの生産学校と東京都の職業訓練を単純に比較することはできませんが、しいて言えば、昨年(2007年)有料になった、機械加工科など「普通課程訓練」の若年者を対象とした訓練が、近いように思われます。

東京都の職業訓練は2001年度までは、授業料も教科書も教材も無料で行われていました。

無料で受講できるからこそ公共職業訓練と言えます。

失業保険のある者は、保険と訓練手当て、交通費が支給されます。

ところが2002年に教科書が有料になり、2007年度からは入校選考料(1,700円)と普通課程訓練が有料(115,200円/年)になりました。

普通課程訓練とは、1年制、2年制の訓練で、主に若年者を対象とした科目があります。

その授業料は都立高校とほぼ同額となりました。

様々な理由で高校に進学できない子どもたちに、親の負担も無く学べる、この訓練は弱者への開かれた道でした。

しかし、有料化後の応募者数が減少したことに現れているように、経済的弱者に対して職業訓練を受ける道を狭め、格差社会にますます拍車をかける結果となっています。

 また「民間でできることは民間へ」を合言葉に、市場化テスト、民間委託などが推し進められ、職業訓練の公共性が崩されています。

そして職業訓練にも「受益者負担」の考え方を持ち込むなど、日本の社会保障の後進性を実感します。

 私たち公共一般専門校講師分会では、教科書有料化に反対する請願署名、また昨年は、職業訓練の有料化に反対し、「若年者の就労支援、公共職業訓練の充実を求める陳情署名」を行いました。

公共一般の本部、支部をあげて取り組み、自治労連はじめ、東京土建など多くの皆様方のご協力も得て、1万1500筆にものぼる、都民の切実な声を都議会へ届けました。

しかし、石原都政はこの声に耳を傾けることなく、弱者切捨ての有料化を行いました。

 今回ドイツの職業訓練を見学して、弱者救済を懸命に成し遂げようとしている姿にふれ、改めて東京都の市場化テストや民間委託へと走る訓練行政の歪んだ姿勢が、対照的に浮かび上がって見えてきました。

 (2008年8月12日付)

生産学校訓練生のヤスリかけ作業

第4回 ミュンヘン生産学校2

 お話はまたミュンヘンに戻りますが生徒数1900人のミュンヘン生産学校は、先生の他に、社会教育専門家が配置されています。

また年金退職者のボランティアもいます。

この方は生徒の就職の際、会社の面接に付き添うなど、生徒のドイツにおける父母、祖母父の役目を果しているそうです。

必要に応じて心理療法士も加わります。このように多くの分野から沢山の方々に支えられています。

 生徒間の問題、教師とのこと、学校が楽しくない、勉強が嫌いなど、生徒の抱える様々な相談にのります。

就職に備え自分の売り込み方も教えます。

また親から暴行を受けている子、食べられない子、親と住めない子など、家族の側に様々な問題を抱えている生徒もいます。

いくつか例をあげるとアルコール中毒、人間関係、麻薬、経済的理由などです。

そのような生徒たちに居場所を与え、一人立ちできるよう援助します。

住むところのない生徒は市の施設から通えるようにします。

若者が持つ、全ての悩みに対応し、何でも気軽に相談できるように、相談室は教室の近くに設け、先生と生徒が容易くコミニケーション出来るように配慮しています。

 教師の教育も2カ月に1度、互いに指導力アップの研修をしています。

ミュンヘン市の社会局、教育局、社会団体とも連携をとっています。

訓練は無料で行われ、生産学校の仕事に携わるとポイントがもらえて買い物が出来ます。

また18歳までの通学青少年には親に手当てが支払われます。

 授業料を有料化した東京都の職業訓練と比較すると、親にまで手当てが支払われるミュンヘン市との違いは大変大きいものと感じました。

 また職員は全てミュンヘン市の公務員で、私のような非常勤は居ません。

 正規と非正規との身分の違いを私はいやというほど感じることがあります。職員会議に同席することは全くありませんし、問題を抱えた生徒と、どう向き合うかは全体の問題にはならず、自分のできる範囲の努力で対応するしかありません。研修も自前でやります。

 私はCAD製図科を担当していますが、10年前、前身のトレース科が、CAD製図科になる時、職員には業者によるCADの講習が行われていて、一緒に受けられたらどんなに良いかとつくづく思いました。

しかし講師にはそのような制度はないと断られ、CADをマスターしないと、非常勤講師として再任用されません。

私は大塚商会のCAD講座を受けましたが、1日数万円もの受講料に音(ね)をあげ、何とか良い方法はないかと考えました。

そこで私たち講師分会では、公共一般の組合事務所のパソコンを借りてCAD製図科の講師たちが集まり、互いに新しいソフトを勉強しました。

春休み夏休みを利用して互いに疑問点を持ち寄りスキルを上げていったことを思い出します。

 この経験から「講師にも研修を」と毎年局に要求し、交渉を持っています。勉強しあった組合員は、いまも各専門校のCAD製図科で活躍しています。

 良い訓練を提供するためには、正規職員も非常勤講師も共に高まり合わなくてはなりません。

ミュンヘン市のように指導力アップの研修を持てることが、非常に羨ましく思いました。

 (2008年8月26日付)

木工の生徒たちで作ったカヌー

第5回 ミュンヘン生産学校3

 ミュンヘン生産学校ではパソコン実習、金属加工、木工、レストラン、自転車などの訓練を見学しました。

どの生徒も熱心に学んでいる様子でした。

8つの生産部門を持ち、生産物とサービスを市の協力者に販売しています。

 市長からの依頼でパーティーを請け負い、計画から最後の請求書を書くまで、全てやり遂げ、仕事の流れを学び、自分たちのやっている仕事の意味を考えることができる。

たとえば、500gのコーヒー豆からカップ何杯のコーヒーがとれるか、「やってみる→学ぶ→データにする」という繰り返しをします。

 自転車の教室では、一般の人の自転車を実費のみで修理します。自転車が大好きだという訓練生。就職が決まったと嬉しそうに話す子もいました。

 生産学校は生産を体験し、生産に導かれて学ぶ所であり、生産と販売による労働現場と言えます。

同時に人格の全面的発展と促進を目指す所でもあります。

そのために、州、市、EUから補助金を受け、企業の協力を得ながら運営されています。

「企業の言いなりに引っ張られるところはありませんか」という私たちの質問に「企業が利益ばかり追求していたら社会は成り立ちません」と校長先生は答えました。

企業とのミーティングは頻繁に行われ、コミュニケーションがよくとられています。しかしその企業が訓練生を受け入れるかどうか、また訓練生がその企業へ就職するかどうかということは、全く切り離されているそうです。

 生徒は就職が決まったり自信がついたりして、卒業前に生産学校を修了することもできますし、もっと訓練を受けたい時には、延長や科目を変えて学ぶこともできます。

これは東京の訓練にはない自由さであり、生徒一人一人の特性を見極め、能力を開発していくことに繋がります。

 そして生産学校を終了し、見習いを経て次の段階に進み、将来はマイスターを目指すこともできます。

 「ドイツには複数の峰がある」と言われます。

大学を卒業する学歴優先という道だけではなく、職業訓練という道からの峰も開けているのです。

 訪問終了後に、あちこちの窓から手を振る訓練生たちの活き活きとした姿に、明日の希望を感じました。

 (2008年9月9日付)

第6回 ミュンヘンにて

 ミュンヘンといえばビール、たっぷり堪能してきました。

しかし、もう一つ暗い影を落すのは、ナチス発祥の地でもあります。

ミュンヘン郊外にダッハウ強制収容所追悼記念館があります。1933年~終戦の1945年までの間に、ユダヤ人、レジスタンス闘士、聖職者、政治家、共産党員、著実者等20万人を超す人々を収容し、3万人を超える人達がここで死亡しました。

 追悼記念館は生き残った者が、そこで死んでいった者の無念さを悔やんで作られました。

ここで何が行われたのか、人間のおぞましさを覆い隠さず記録し、後世に伝えています。

 ここ地域では小学校に入ると毎年、この収容所に来るそうです。大勢の見学者に混じって、何組かの学生のグループに出会いました。

先生の話に耳を傾ける子どもたちの真剣な眼差しは、戦争をどう反省したかの決意の表れだと思いました。

もし日本に置き換えて考えてみるならば、小学生になったら必ず、広島、長崎を訪れ原爆資料館などを見学するということになるのでしょうか。

加害、被害を含めて戦争とは何か、小さいうちから心に刻むことが大切だと思いました。

 ミュンヘン大学の白バラ記念館にも行きました。

2006年の映画「白バラの祈り」の舞台そのままのキャンパスで、事件当時にタイムスリップしたようでした。

ナチに反対するビラを大学構内で撒いたゾフィー・ショルたちは、ただそれだけで、5日後に処刑されました。

そのビラが、撒かれた状態のままタイルになって床に貼り付いていました。

ここでも「決して忘れない」と、後世に伝えてゆく意思を感じました。

ナチス発祥の地ではあるが「白バラ」があったからこそ、ミュンヘン市民は誇りを持って生きて行けるという話しに胸打たれました。

 戦争をどう反省し、どう伝えてゆくか。

私はすべてのことが、ここから出発していると思いました。

日本も加害者として戦争をどう反省し、どう真実を伝えていくかに徹しなければ、被害者は救われません。

ドイツの職業訓練も、その出発点に立って取り組まれているのではないかと感じました。  (2008年9月23日付)

ダッハウ強制収容所の扉

「働けばリッチになる」

タイルになって残されているビラ

第7回 マークノイキルヘンにて

 ミュンヘンからドレスデンに向かう途中、マークノイキルヘンという、小さな田舎町に1泊しました。

見渡す限りの畑、遠くの森、素朴な家々、心休まる懐かしい風景でした。

 ここは旧東ドイツの地。チェコの国境に近く、産業といえば木工で、ドイツ唐檜で作られるヴァイオリンの産地です。

現代文明から取り残されてしまったような静かな町でした。

子供のころ何処かで踏みしめていた大地がそのまま、残っているような懐かしさを覚えました。

大きくなるにつけて一つ一つ無くしていった大事な物、それらを大切に保存しているような町。

地球を傷つけずに、そっと生きている、小さい美しい町でした。

 山小屋風の小さなホテルで、夕食を食べながらのコンサートが行われました。

宿のご主人の吹く、長いアルペンホルンの音色が、周りの風景の中に染み込んでいきます。

私もこの町で作られた木製のリコーダーを買いました。

楽器を買うとすぐにも鳴らしてみたい衝動にかられるのが私の癖、包みを解いて吹いてみました。

木の音は柔らかで優しい響きです。思いつくままに「菩提樹」や「ローレライ」などを吹いてみると、宿に居合わせて方たちが歌い出しました。

音楽は人々を結び合わせてくれます。

楽しい交流ができ、私たちのグループで歌った「さくらさくら」の二重唱に大きな拍手をもらいました。

純朴な人々の温かなもてなしが、何よりも嬉しかったです。

 東西が統一され、西側の「文化」が急速に流れ込んで来る中、それは「文化」とは言いいがたく、昔からそこに住んでいる者にとっての、歴史や伝統を守り伝えてゆく、ドイツの人々の心意気を感じました。

豊かさとは何か、様々な思いにかられます。

 私はこの旅を振り返ると、いつもこのマークノイキルヘンの風景が浮かびます。 (2008年11月11日付)

朝の霜柱

夕暮れの大地

第8回 ケーテ・コルヴィッツ

 私が初めてケーテ・コルヴィッツの画集を目にしたのは、組合事務所に、何方かが置いていった物でした。

モノクロトーンの、何と深い悲しみを漂わせていたことだったろうか。

しかし私はその画家の名前すら、すっかり忘れていました。

 ドレスデンに向かう途中のモリツブルグという町で、私たちはお城の湖に面した小さな美術館を訪れました。

それはケーテ・コルヴィッツの終焉の地で、組合事務所で目にしたあの画集の人だと気が付き、私は再会の喜びを胸に、一つ一つの作品と向かい合ってきました。

 ケーテは1867生まれ、若い時から絵の才能を発揮します。

しかしこれ程、悲しみを背負った画家はいないのではないかと思われるほど、世界の悲しみを見つめ続けて生きた女性でした。

彼女の人生は世界を襲った、2つの大戦にまたがっていました。

 24歳で幼馴染のカール・コルヴィッツと結婚します。

彼は貧民街の診療所の医者でした。

ケーテはそこで貧しい人々の生活をみて、その苦難と悲惨を知ります。

貧しき者の中に見出した人間性。

ケーテが下層民衆の描写へと傾倒し、プロレタリアを描かずにいられない気持ちが伝わってきました。

 長男ハンスが生れ二男ペーターが生れます。

子育ての時期も彼女の制作は旺盛に続きます。

日記には夫の全面的な協力が記されています。

しかし不幸が襲います。

ペーターが第一次世界大戦に志願兵となって出征し、18歳で戦死します。

長男ハンスは死んだ弟を悼んで、自分の男の子にペーターと同じ名をつけました。

2度目の不幸、それは何と言うことか、孫のペーターも第二次世界大戦、ロシア戦線で戦死します。

 ケーテは希望を追及してゆくことが、いかに困難であるかを生涯にわたって追求し、テーマとしていました。

2人のペーターの死は、やがて夫や息子達を戦争にとられてゆく、全ての女たちの悲しみと結び合い、反戦と平和への願いへと繋がってゆきます。

 ここにあげた3枚の絵を選ぶのには、ずいぶん迷いました。「自画像」は1891年の若きケーテです。

何故自画像を選んだのか、それは彼女が日記の中で「私は美しい女に生れなかったことに感謝している」と述べて、その分、内面を深く見つめる強い意志を持ったと、自分を語っています。私はこの言葉に彼女自身の生き方が貫かれていると思いました。

自画像からは内面の美しさと理性が滲み出ていると感じます。「ドイツの子供は飢えている」私はこの絵の前で涙が止まりませんでした。

「種を粉に挽いてはならない」これは彼女の遺言といってよい作品です。

ナチズムの嵐の中で、制作を停止させられ、家を破壊され、夫を失い、孫のペーターを戦争にとられ、ヒトラー政権の下で「生命の種を挽いてはならない」と訴えることは、まさに死をかけた行為でした。

 ケーテはベルリンを逃れドレスデン郊外の、この美術館の地に疎開し、終戦を目前にして亡くなりました。

悲しみを抱えたまま。 (2008年12月23日付)

自画像

ドイツの子供は飢えている

種を粉に挽いてはならない

第9回 モリツブルグ生産学校1

 モリツブルグ生産学校は旧東ドイツ、ドレスデン郊外のモリツブルグにあります。

1998年創立のこの学校は有限会社として運営されています。

2008年1月に、旧東ドイツ時代の孤児院だった建物を買い取り、現在生徒を中心に校舎を改装中です。

案内をして下さったマイスさん(社会教育士)は、ドレスデン生まれで、ドレスデンの大学で社会学を学び、卒業後病院に勤務していました。

主に麻薬関係(マリファナ、ハッシッシなど)の薬害の子どもたちを看ていたそうです。

 東西統一以後の失業者に対して職業訓練をしたいと、それまでの経験を活かし、やりがいのある仕事を求めて職業訓練の指導をするようになったそうです。

 現在18歳~27歳の青年と高齢者合わせて130人の訓練生がいます。訓練期間は半年から1年かけて働けるようにします。

介護施設で働きながら学ぶ生徒や、近くの自動車工場で車の修理の作業をするグループもいます。

電気・農業・土木・自動車など、20人程のグループで活動しています。

家畜についての勉強、バイオ有機農法、森林の管理、燃料作りなどを学んでいます。また仕事を請け負うこともあります。

生産学校の隣地に教会が経営する幼稚園が新築されたさい、ここの内装工事も生産学校で請け負いました。

不用品の回収、分解、分別、そして再び材料として販売もします。

また校舎の改築に携わり、自分たちの教室や事務所を作ることも、訓練の一環として行っています。

 マイスさんは将来の夢を語ります。

今までの経験を活かし、今後は精神障害者(統合失調症、若年アルツハイマーなど)や糖尿病患者など障害を持つ、あらゆる人を受け入れていきたい。

また訓練の質を向上させるために、1年以上の訓練も取り入れていきたいと抱負を語っていました。

 現在、費用は主に失業保険でまかなっていますが、とても額が少なく、EUからも援助をもらえるように働きかけているところです。

指導員25人で、実技を指導する人5人、また障害を持った先生も8人います。

 「東西統一後、法律が何度も変わり、西側の文化も急激に流れ込んできて、翻弄され大変な混乱となりました。

 旧東ドイツの時代は、ある意味では保護された囲いの中に居たようなものであり、人々は家を持ち、貧しくとも失業者はいませんでした」とマイスさんは語ります。

しかし統一後の経済格差や教育落差に付いてゆけず、落ちこぼれる子どもたちが出てしまいます。

そのことが生産学校の必要な理由でもありました。

予想をはるかに超える混迷の中で、全ての人々に職業生活の道を切り開こうと、マイスさんはじめ職業訓練にかけるの皆さんの意気込みが伝わってきました。

 (2008年1月13日付)

マイスさん

モリツブルグ生産学校

孤児院を改装し、校舎を建築中

第10回 モリツブルグ生産学校2

 

 生産学校の役目は、まず生徒が実習できる場所を確保すること。

企業に働きかけ理解してもらい依頼します。

そしてドイツ語を教えます。

家族の問題、個人の問題、生徒の抱える全ての問題に対処します。

これらはミュンヘン生産学校と同様な状況にあるからです。

その他、やる気をどう出させてゆくか、時間を守る、喧嘩をしない、挨拶をしようなど、基本的なことも教えます。

そのためにはグループでのコミュニケーションを深めていくことに重点をおいています。

「できるだけパソコンに関わることを少なくしています」とマイスさんは語ります。

このことは、まず人格の確立と、人間関係、信頼関係をしっかりと築くことが大切で、その上に立って、はじめてツールとしてパソコンや携帯電話などを使いこなせるのではないかと、言われたのだと理解しました。

 訓練生1人につき月額400ユーロ、州から出ます。

それを生徒に150ユーロ、学校に250ユーロに分け、職員の給料などになります。訓練生個人に訓練手当て日額5~10ユーロと月額350ユーロ(働いたことのない子で)とアパート代が支払われます。

 22~23歳の生徒では、合算して月額、約465ユーロ+アパート代ということになります。

 就職率は約30%で、残りの70%の人は再び職業訓練をします。

この生産学校では生徒を「訓練の成果が出て必ず就職に結びつく生徒」「訓練次第で何とか就職に結びつけるだろう生徒」「訓練の効果がない生徒」の三段階のクラスに分けて考えています。

しかし、たとえ訓練の効果が出ない生徒であっても生活保護を受けて、未就職の間は無期限に援助されます。

 学校は有限会社ですが、税金を払わなくて良い程度の収入を得て、儲けを出してはいけないそうです。

現在学校で注文を受けているものは、卵・麦・野菜・薪・庭用テーブル、椅子・道路の花壇・古い電気製品の修理、回収、分解、リサイクルなどです。

 生産学校から車で30分の所にある、農業実習施設を見学させていただきました。

自然豊かな所で、広大な敷地内に水量のある川が流れていました。

川に突出した昔の水車小屋に、今は水力発電の装置を作り、この実習施設で使う全ての電気をまかなっています。

そして余った電気は周辺の農家などに販売しています。

 (2008年1月27日付)

モリツブルグ生産学校

農業実習業舎

ひつじたち

実習施設内の豊かな流れの川

第10回 モリツブルグ生産学校2

 

 生産学校の役目は、まず生徒が実習できる場所を確保すること。

企業に働きかけ理解してもらい依頼します。

そしてドイツ語を教えます。

家族の問題、個人の問題、生徒の抱える全ての問題に対処します。

これらはミュンヘン生産学校と同様な状況にあるからです。

その他、やる気をどう出させてゆくか、時間を守る、喧嘩をしない、挨拶をしようなど、基本的なことも教えます。

そのためにはグループでのコミュニケーションを深めていくことに重点をおいています。

「できるだけパソコンに関わることを少なくしています」とマイスさんは語ります。

このことは、まず人格の確立と、人間関係、信頼関係をしっかりと築くことが大切で、その上に立って、はじめてツールとしてパソコンや携帯電話などを使いこなせるのではないかと、言われたのだと理解しました。

 訓練生1人につき月額400ユーロ、州から出ます。

それを生徒に150ユーロ、学校に250ユーロに分け、職員の給料などになります。訓練生個人に訓練手当て日額5~10ユーロと月額350ユーロ(働いたことのない子で)とアパート代が支払われます。

 22~23歳の生徒では、合算して月額、約465ユーロ+アパート代ということになります。

 就職率は約30%で、残りの70%の人は再び職業訓練をします。

この生産学校では生徒を「訓練の成果が出て必ず就職に結びつく生徒」「訓練次第で何とか就職に結びつけるだろう生徒」「訓練の効果がない生徒」の三段階のクラスに分けて考えています。

しかし、たとえ訓練の効果が出ない生徒であっても生活保護を受けて、未就職の間は無期限に援助されます。

 学校は有限会社ですが、税金を払わなくて良い程度の収入を得て、儲けを出してはいけないそうです。

現在学校で注文を受けているものは、卵・麦・野菜・薪・庭用テーブル、椅子・道路の花壇・古い電気製品の修理、回収、分解、リサイクルなどです。

 生産学校から車で30分の所にある、農業実習施設を見学させていただきました。

自然豊かな所で、広大な敷地内に水量のある川が流れていました。

川に突出した昔の水車小屋に、今は水力発電の装置を作り、この実習施設で使う全ての電気をまかなっています。

そして余った電気は周辺の農家などに販売しています。

 (2008年1月27日付)

モリツブルグ生産学校

農業実習業舎

第11回 ドレスデンにて・奇跡の「聖母(フラウェン)教会」

 

 ドレスデンは2度目の訪問でした。

前回2004年に訪れた時は、第二次世界大戦末期のドレスデン無差別爆撃による傷跡が、まだあちこちに残されていました。

弾丸の跡の生々しい建物、破壊された瓦礫の山。

この光景は私の目の中に焼きついています。

その中で聖母教会も修復中でした。

しかし今回、見事に甦った聖母教会を、私は目を見張る思いで眺めました。

「石の釣鐘」と呼ばれる丸屋根はヨーロッパ教会建築の傑作であり、見る者を慈愛に満ちたどっしりとした重みで包み込んでくれるようでした。

 1945年3月10日の東京大空襲は、全てを焼き尽くして焦土と化し、10万人にも及ぶ死者行方不明者を出しました。そのひと月前のことです。2月13日の夜、米英軍によるドレスデン無差別爆撃が開始されました。

バロック建築の建ち並ぶ美しい古都ドレスデンは焼き尽くされ、破壊し尽くされ瓦礫の山と化しました。

日本では空襲警報が鳴ると防空壕に逃げたのですが、ドレスデンでは市民は地下室に避難しました。

爆撃され焼かれた石造の建物から瓦礫が地下室に雨のごとく落下しました。逃げ場を失い、蒸し焼きの状態で死んでいった人々の痛ましい最後は、想像を絶するものです。死者の数は未だにつかめていません。

それはドイツ各地から人々が、被害の少ないと思われたドレスデンに難民となって流れ込んで来る最中のことでしたから、3万5千人とも10万人とも50万人とも言われています。

 聖母教会は爆弾の雨にも暫く持ちこたえていましたが、2千度に達した火災の熱で、ゆっくりと崩れ落ちたのは2日後だったそうです。

 瓦礫の山は、戦後五十余年も街中に放置されたままでした。

それは「必ず再建する」というドレスデン市民の固い思いの結晶だったのでしょう。

聖母教会の復元は1万個の瓦礫を組み合わせ、「世界最大のジグソーパズル」と言われたそうです。

 エルベ川に面した古都ドレスデンは、いたる所から聖母教会の塔が眺められます。

モザイクのように点々と置かれた黒い石は、瓦礫の中から探し出された、戦火に焼かれたオリジナルの石です。

一つ一つに番号が記され分類され、気の遠くなるような作業の繰り返しと、人々の善意が成し遂げた仕事です。

市民が総出で保存と復元に執着し、あらゆる困難を乗り越え、資金の殆ど全ては世界中からの寄付によって賄われました。

その金額は05年現在で、1億ユーロになったといいます。

イギリスでは50万ユーロを集め、塔上部の十字架を作りました。

あの日、ドレスデンを廃墟にしたのはイギリス軍でした。

ですから、この十字架は和解の意味を込めて「平和の十字架」と呼ばれているそうです。

 

 

 今回は外観だけを見ましたが、内部の彫刻、祭壇、パイプオルガンなどの復元は外観以上に困難を極めたことでしょう。同時にその復元は、どれ程の喜びと希望を人々にもたらしたことだろうか。

甦った聖母教会は戦争の悲劇と愚行を永久に語り継いでいくことでしょう。

 (2009年2月10日付)

修復された聖母教会

破壊された聖母教会

第12回 ドレスデンにて・ケストナー

 

 今、NHKで「私の一冊」と題し、各界の方からお勧めの本を紹介しています(2009年2月時)。

 私だったらその1冊に何を選ぶだろうか、読み返した回数で選ぶのなら、なんと言ってもエーリッヒ・ケストナーの「飛ぶ教室」です。

最初は子どもの頃でした。今も持っているこの本は、挿絵がたくさん入った、高橋健二訳の子ども向けの本です。

 この物語は、ドイツのキルヒベルクにある、ギムナジウム(高等中学)を舞台に、クリスマスシーズンの学校で起こる様々な事件が語られます。

私が惹きつけられるところは、活き活きとした子ども達の姿と、先生の優しさです。「子どもの涙は、おとなの涙より決して小さくない」子どもたちは、自分の境遇や弱点を乗り越えて、悲しみに打ち勝ってゆきます。

それぞれが勇気と智恵を持とうと呼びかけます。

私は悲しいことにぶつかるたびに、この本を読んでいたのだと思います。子ども向けの本なのに大人の私が励まされました。

 ある時、私の職場がまだ訓練校といっていた時代のこと、昼休みの講師室で、この本を読んでいると、「中嶋さん、ケストナー読んでいるんだ」と話しかけてきた先生がいました。

それがきっかけで「二人のロッテ」「エミールと探偵たち」「点子ちゃんとアントン」「五月三十五日」「わたしが子どもだったころ」と、ケストナーの作品を読むことになりました。

その方は私よりずっと年上の方で、何年か前に亡くなられましたが、ケストナーの作品のように心の美しい方でした。

長い講師生活の中で、思い出深い出会いでした。

 ケストナーの優しさはどこからきているのでしょうか。

彼は1899年ドレスデンで生れ、第一次世界大戦では兵士として召集されています。

1933年ヒットラーがドイツを支配すようになると、自由主義者、平和主義者たちの著書は焼かれ、ケストナーもその中の1人でした。

書くことも制限されました。

しかし子ども向けの本だけは許されて、そんな中で「飛ぶ教室」は生れました。

ナチスの弾圧と物資の欠乏と、1945年2月のドレスデン大空襲と、その中を生きとおし、着の身着のままで敗戦の中から立ち上がってゆきます。

だからこそ反戦の思いと優しさとが作品の中に息づいているのだと思いました。

 今回の旅行で憧れのケストナー記念館に立ち寄れたことはとても嬉しかったです。

記念館はホテルから歩ける距離にあって、楽しい展示で溢れていました。ドイツ語で書かれた沢山の本に囲まれて、手に取ると挿絵の中から物語が甦ってきます。

亡くなられた先生と交わした数々のおしゃべりが甦ってきて、ケストナーをますます身近に感じました。

 どんなに困難な中にあっても子どもたちに、夢と希望を贈り続けたケストナー。

児童文学はもしかしたら子どもだけではなく、大人たちのためにもあるのかも知れない。

子どもの頃の夢と希望を再び思い返す、私たち大人への温かい贈り物なのかもしれません。

 

 

 (2009年2月24日付)

ケストナー記念館入り口の彫刻

第13回 ドイツの春

 旅を共にした仲間、世代を越えた学生たちとの交流や、ドレスデンのバロック建築オペラ劇場で本場のオペラを楽しんだこと。また世界的に有名な絵画が並ぶ美術館。人々の生活や、市場の賑わい。美しい街並みなど、書きたいことはたくさんあります。

しかしこの連載を終わるに当って一番強く感じたことは、何と言っても職業訓練において、先進国といわれるドイツと日本との違いです。

ドイツの生産学校では、入試は無く希望者全てを受け入れ、無料で行われています。

私は入校選考のたびに、定員の枠で落さなくてはならない方々のことを考えると、心苦しくなります。

こんな平等性が日本にも欲しいとつくづく感じました。

 同じ資本主義国であっても、どこに視線を向けて政治が行われるのかによって、ヨーロッパ型の福祉国家とは、このような違いとなって現れるのだろうか。

ドイツにおいても、ベルリンの壁が崩壊して20年、今も旧東西の様々な差による混迷を引きずっているように見えました。

ヒットラーの時代、東西に分断された時代、そして統一という過程を背負って、日本以上に困難を抱えていることでしょう。

しかし困難な時だからこそ夢と希望が必要なのです。

 貧困、派遣切り、雇用破壊、年金問題、医療問題などなど、日本の空には幾重にも暗雲が覆いかぶさっています。

これらを吹き飛ばし、夢と希望が持てるようになりたい。

帰国の朝、そんな思いを抱いて、エルベ川のほとりを散歩しました。

 この川沿い北西数十キロのところにトルガウという町があります。

第二次世界大戦終結直前の4月25日に、エルベ川を挟んでソ連軍とアメリカ軍が出会います。

エルベ川に架かる破壊された橋の中程で両軍が握手を交わしたという、「エルベの誓い」の記念すべき歴史的出来事のあった町です。

ナチス体制は壊滅し、2週間後5月8日、ヨーロッパは日本より3カ月早く、終戦を迎えました。

 

 私たちは蕩々と流れるエルベ川に向かって、誰からともなく歌い出しました。「ふるさとの声が聞こえる、自由の大地から」。

これはソ連映画「エルベの邂逅」の主題歌だそうですが、曲はこの川に相応しく、おおらかに美しい。川向こうは復元された旧市街地。

その中にオペラ劇場、ツビンガー宮殿などのバロック建築が建ち並び、聖母教会の丸屋根も見えます。

 小雪のちらつくミュンヘンから始まったドイツの旅でしたが、いまエルベ川の岸辺は満開の桜で一際美しく、ドイツの春の空気を胸いっぱいに満たしました。

  公共一般は来年(2010年)結成20周年を迎えます。

私も結成当時からの組合員ですが、思えば労働組合とは不思議な力を持った所です。

人は支えあって生きるもの、困難に立ち向かい切り開き、夢と希望を決して手放さない。

だからいつも感動的です。

ドイツで学んだたくさんのことを、明日からの仕事に、組合活動に、活かしてゆきたいと思いました。(2009年3月10日付)

桜咲くエルベ川

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